古代中国で、周辺の夷、番、戎、狄同士での交流はあったのでしょうか?
教えていただけませんか?よろしくお願いします。
至急お願いします。
回答ではありません。参考程度にしてください。
狄・北狄
古代中国において北方の中原的都市文化を共有しない種族を呼んだ呼称。
周代においては赤狄、白狄といった集団が史書に記されている。それらの首長家系は晋の公室と通婚するなど中原諸侯を構成した諸国とも密接な関わりを持ち、またその居住地も必ずしも中原と隔絶したわけではなく、北方諸侯に属する都市国家群の点状に分散する領地の間に広く居住したと考えられている。
晋の文公重耳に仕え、外戚ともなったた重臣狐偃ら狐氏一族が、白狄の出身であったこと、後に諸侯国となった中山がやはり白狄の集団に起源することがよく知られる。
後世になって、都市国家勢力を基盤にのちの漢民族のもととなる文化集団の形成が進み、彼らの間で中華意識が台頭するに従い、中原より北方にいた異種族は総じて狄と呼ばれるようになり、一種の蔑称としての意味合いが強くなっていった。匈奴、蒙古、鮮卑といった諸集団がこうして後世になって狄と呼ばれた。 また、日本における用法もこの流れをくみ、古代においては日本海側に住む蝦夷を蝦狄と書いたり、単に狄と書いた。この場合、太平洋側の陸奥国の管轄対象が蝦夷または夷、日本海側で出羽国が管轄するのが蝦狄または狄と使い分けた。民族としての実体は同じである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%84
夷・東夷
黄河流域では、ほかの地域に先んじて文明が発達した。そのため、この黄河文明の担い手たちは、周辺の諸民族を文化的に劣ったものとして見下した。さらに、これらの周辺諸民族が、黄河文明の担い手であった漢民族とは違った文化をもっていたこともこの見方を促進した。このため、漢民族は、自らを華夏と呼び、周辺の諸民族を戎・蛮・狄・夷などと呼んで周辺の諸民族を卑下した。
具体的に夷と呼ばれた人々は、殷代に、現在の江蘇省・山東省にあたる沿岸地域に住んでいた人々のことであると考えられている。彼らは、黄河文明の中心地より、東側に住んでいたため、東夷と呼ばれた。しかし、周代に至り、斉や魯といった漢民族系の国が山東半島に建国されるとともに、これらの夷と呼ばれた人々は、漢民族に同化するようになっていった。
後に、朝鮮や倭といった民族が、東方にあることが知られるようになると、彼らもまた東夷と呼ばれることとなった。有名な『魏志倭人伝』も、本来は三国志の中にある「東夷伝」の一部分に過ぎない。「扶桑」という蔑称も必ずしも日本を指したものではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B7
戎・西戎
古代中国の西方にいた遊牧民族を蔑んで呼ぶ言葉。
中国は西方にいた民族を中華思想により蔑み、一律に戎と呼んでいた。但し、西方と言っても周代には現在の陝西省から青海省の付近にいたわけであり、現在の中国の領土の西方ではない事に注意されたい。周の十二代王幽王は暴政を布いたので諸侯の恨みを買い、諸侯の一人申公の誘いを受けた犬戎(けんじゅう)は紀元前770年に周の首都鎬京を陥落させて西周時代に終わりを告げさせた。これ以降は春秋時代に入る。
周が追われた地に秦が封ぜられる事になるが、秦は元々戎の一派であるという説もある。秦の穆公は度々戎を討って覇者となった。その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収されたと見られる。一部は分散して匈奴に入った可能性も考えられる。民族や種族としてはいろいろ諸説はあるが、チベット系ともテュルク系ともいわれるが、特定はできない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8E
西番・番
明代から中華民国期にかけて、甘粛・四川・雲南地方の中国人が、隣接するカム地方のチベット人をさして用いた蔑称。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA
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